「街の里庭日記」を立ち上げて、今日で1年が経過した。年末年始を除いて、360近い記事をコツコツと書いてきたんだね~。
これまでの写真や動画を編集したり、記事に相応しい音楽や俳句を探したり、楽しい日々でした。音楽や俳句と共に写真を見ると「なるほど!」と思えて俳句に実感がこもったり、写真を見る目が変わるのも面白かった。楽しんで記事を書きつつ学ばせていただきました。
さて、1周年を迎えるにあたり、庭に向かう原点を振り返っておこうと思います。
●昭和40年代の身近な自然
「雑草への思い」に書きましたが、私にとっては自然が両親でした。
私が小学時代を過ごした昭和40年代の鹿屋は、自然が豊かで昆虫はデカかった。
バサッバサッと羽音がしそうなカラスアゲハはモスラみたいだったし、
自転車でオニヤンマに額がぶつかった時はビシッと音がして痛かったし、
デカいカマキリが2匹睨み合ってるかと思えば片方の首は下に落ちているし、
キモさナンバー1のアシダカグモが畳を走るとパラパラパラパラ…と走る“足音”がするし、
デカいイボ蛙に石をぶつけるとボコッと音がするし、
一直線に見渡せるあぜ道には、見渡せる先の方まで1mおき位にビッシリとヘビの屍骸や抜け殻が干からびて敷き詰めているかのようにあったし・・・
早朝に里山に登り、持参した傘を広げて逆さに吊るし、思いっきり木を蹴ると、寝ぼけた甲虫たちが大量にボタボタ落ちてきました(←これが虫取り:狙いは兜と鍬形)。
この豊かな自然から命のことをたくさん学びました。
今じゃ考えられないよね~。自然が貧しくなりました…。この豊かさを取り戻したい。
●「俺は今、ここにいる」
大人になって(30代末くらい)、とあるワークショップで、時間は10分ほどで「子どもの頃の体験」を書くよういわれました。
小学校の頃の思い出が駆け巡ります・・・いろいろな場面をワープして、ある風景でタイムマシンは止まりました。そのシーンの光景をノートにメモしていきました。
最初に浮かんだもの―「野アザミ」、続いて「蟻」、「草いきれ」、「暖かな大地」、「葉ずれの音」、「微風」、「まぶしい太陽」……見える光景を次々と書き留めて行きました。そして、出来たのが次の詩です。
目に揺れるピンクの野アザミ
そよ風が肌をなで
葉ずれの音が 耳にささやく
アリがチリチリ腕を這い
裸足の足をくすぐる草草
天高く雲は行き
立ち昇る草いきれの中
私は今、暖かな大地に抱かれている
「俺は今、ここにいる」
「俺は今、ここにいる」は、「タイトルは?」と聞かれて出てきたものです。
小4くらいだったと思いますが、誰もいない里山の上で、私は確かに母なる大地に受け止められていました。この経験を私は「受け止められ体験」と呼んでいます。
私は、真上から太陽に見守られ、背中を大地に支えられ、全身を優しく風に撫でられて、自分という存在を五感でしっかりと感じることができました。自分という存在に不安がない―この体験こそが、私の人生を根底から支えてくれたものです。
自然が人を支えてくれる―この思いがあるので、人を支えてくれる豊かな自然を復活させたいのです。
●「すべて世は事も無し」
おや、叢の向こうに何か見えますね。

大きな木が立っていて、鳥や動物たちがいるようです。

三羽の鳥たちが覗き込んでいますね。

二羽の兎たちも何やら見守っています。

モグラ君までが顔を出していますよ。

水仙がいい香りを漂わせる下で、陽だまりの中、一体何を見ているやら…木のてっぺんからオーブも見守ってますね~

大の字スヤスヤ・・・ワンコでした!w

そう、こんな感じ。
このワンちゃんのように大の字になって寝転んでいたのです。
ブラウニングの『春の朝(あした)』の名訳(上田敏)を思い出しますね~。
時は春、
日は朝(あした)、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這い、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
これが、私の目指す世です。